2026年1月27日

土性沙羅の第二のキャリア|至学館コーチとしての日常(前編)

土性 沙羅

オリンピック金メダリストから、母校・至学館レスリング部のコーチへ。

現役時代とはまったく違う視点でマットに立つようになった土性沙羅は、指導者としての日々の中で、想像していた以上のギャップと向き合っている。


土性が直面する指導の現場を全2回(前編)で掘り下げる。

技術はできても、言葉にするのが難しい

コーチになって感じた一番の難しさは、選手たちに言葉でどう伝えるかということだった。


「技をやるときの伝え方など、なかなか言葉にするのは難しくて、実際にコーチをやってみて、より難しいなと感じています」


自身が現役時代に身につけてきた動きは、身体が自然に反応する感覚として残っている。
しかし、その感覚を言語化し、選手に理解させ、再現させるのは別のスキルだ。


その中で学びになるのが、一緒に選手の指導をしている2人のコーチの存在だという。


「他の2人のコーチは言葉で伝えるのがとても上手で、こういう風に説明すればいいのかと学ぶことが多いです。それを見て真似しながら、自分の指導にも取り入れていくことを意識しています」


そして、選手との関係性も大事にしている。


「選手とコーチで対立してしまうのはよくないので、いかに選手に寄り添えるかを考えています。そこは自分としては、割とできているかなと思っています」


技術だけを押しつけるのではなく、選手と同じ目線に立ちながら、一緒に上を目指していく。

そのスタンスは、土性が大切にしている指導の土台だ。

“頑張るのが当たり前”から“やる気を引き出す”ところから

土性が現役時代の至学館と今の至学館で、ギャップを強く感じたのは、選手たちのモチベーションだった。


「もっとみんな必死で頑張ると思っていたのですが、思ったよりもそうでもなかったというか…私たちの時代は、世界チャンピオン、オリンピックチャンピオンを目指している選手しかいなかったので、もうとにかく必死に頑張ることが当たり前でした。でも今は、選手のモチベーションを上げるところから始めないといけない時もあるんです」


練習の雰囲気も大きく変わったという。


「練習がお通夜みたいな空気の時もあって、さすがにちょっと暗すぎない!?と思うこともあります(笑)練習を見に来てくれた卒業生も、なんか静かですねと言うくらい、今は全体的に見ても元気が少ない選手が多いのかなと感じます」


その背景には、時代の変化もある。
コロナ禍で「声出し禁止」の期間が長く続いたことが、今も無意識のブレーキになっているのではないか、コーチ陣の間ではそんな話も出ているという。

レスリングだけじゃない。挨拶、返事も指導


至学館レスリング部は、高校生からOGまで一緒に練習をしているが、指導にあたり年代によってアプローチを変える必要があるのか。

その問いに対し、土性はこう語る。


「高校生に関しては、レスリングだけではなく、挨拶ができていない、返事ができていない、声が出ていない、といったレスリング以外のところも伝えるようにしています。それはこれから先の人生で必要なことだと思うからです。もちろん高校生以外でも、できていない時は同じことを伝えています」


一方で、レスリングそのものの指導内容は、年代によって大きく変えることはないという。

競技力以前に、人として身につけてほしい土台の部分にも、指導者としての視線が向いている。

選手それぞれ違う目標に、どう向き合うか

選手一人ひとりが描く目標は、今や多様だ。
選手全員が世界一を目指すという時代から、日本の上位を目標にする選手、世界を目指す選手が混在する時代へ。


「全日本で優勝したい、インターハイで優勝したいなど、日本国内で勝つことを目標にしている選手もいれば、オリンピックで金メダルを取りたいなど、世界で勝つことを目標にしている選手もいます。とはいえ、全体練習を目標ごとに分けることはできないので、基本的にはみんな同じ練習をしています。その中で、私は全員に全力で指導する、選手全員の目標が達成できるように、自分の全力を使ってサポートしたいという気持ちでやっています」


たとえ選手本人が、日本でのトップを目標にしていても、土性の目には、その先の可能性が見えることもある。


「この選手は世界にいけそうだなと感じたら、もっと上を目指せるよ、世界にいけるよと伝えます。実際、全日本での優勝を目標にしている選手には、全日本で2回優勝すれば世界選手権にいけるよ、せっかくなら世界を目指そうという話もしました」


選手自身の目標を尊重しながら、もう一段上の景色を見せていく。
それもまた、オリンピック金メダリストの土性だからできるアプローチだ。

女性コーチだからこそ、担える役割がある

レスリングの指導者は、男性が圧倒的多数だという。


「女性コーチは、最近少し増えてきたかなという感じですが、まだまだ全然少ないですね」


至学館は女子選手だけのチームのため、コーチ陣は生理など女性ならではの体調管理にも向き合う必要がある。そんな中で、土性の存在は大きい。


「今は昔よりも、生理や女性の体の問題などについて、男性コーチも勉強しています。選手の体調の変化に気づいて練習メニューに反映したり、体調を優先させて休ませたり、配慮されている環境です。ただ、それでもやっぱり男性には言いにくいところもあるので、そういう面では、選手にとって私は話しやすい存在になれているのかなと思っています」


ある日の朝練では、選手から「生理でお腹が痛くて、あまり走れないかもしれません」と相談を受けたという。


「そういう時は、無理しないで、痛かったら気にせずに抜けていいからねと伝えています。体調的には走れないのに、コーチに言えないまま参加して、もっと早く走りなさいと注意されてしまったら、選手のメンタルが落ちてしまいます。正直に言えることで救われる部分があると思っています」


男性コーチと女性コーチ、それぞれの良さがあり、そのバランスが選手たちの安心感につながるだろう。

技術の伝え方、選手のモチベーション、体調や心のケア、世代ごとの価値観。指導者として向き合う課題は尽きない。


それでも土性沙羅は、一つずつ丁寧に向き合いながら、確実に前へ進んでいる。