2026年5月19日

心の“振り幅”をどう整えるか―どん底を知って辿り着いた「今、ここ、自分」の境地

出口 クリスタ

最高の状態を知っているからこそ、その再現の難しさも知っている。

2019年の絶頂と、2021年の挫折。

その両方を経験した出口クリスタ(日本生命)が辿り着いた考え方とは―

2019年世界選手権 “雑念が消えた最高の状態”

「自分が今までで一番調子が良かった試合は、2019年の世界選手権ですね」

クリスタはそう振り返り、その感覚を鮮明に覚えていると話す。


「いわゆるゾーンに入ると言われる状態かもしれないですけど、あの時のあれ以上の経験はいまだにしていません。周りの声も観客の歓声も聞こえない。雑念が全くなかったですね」

 自身の中にあったのは、特別な高揚ではなく、むしろ無駄なものが削ぎ落ちた静けさだった。


「優勝したいとも思っていなかったです。ただ畳に立って、目の前の相手を投げる。そのことしか考えていませんでした」


“勝たなければ”という意識が頭から消えた時、最も強い自分が出た。
そして、その逆も知っている。


「絶対に優勝しなきゃとか、負けたらどうしようとか、意識ばかりが先に向いて焦っている時は、基本何事も上手くいかないんですよね。だからこそ、目の前のことを一つずつクリアすることだけに意識を集中できることが理想だし、それが自分にとってベストな状態だと思います」

恐怖を押し殺した結果の東京オリンピック選考会

ただ、理想はいつも再現できない。

そして、それが最も象徴的に表れたのが東京オリンピックの選考会を兼ねた2021年の世界選手権だった。


「2019年の世界選手権の時は、どちらかというと挑戦者の立場だったんですよね。それまで世界選手権で優勝したこともなかったし、失うものもなかった。だから、あそこまでの状態に持っていけたのかなと思う。でも、優勝して世界チャンピオンのタイトルを獲ってから、注目がすごかったんですよ。そうなった時はやっぱり難しかったですね。プレッシャーがかかった時が一番難しいと実感しました」


さらに問題だったのは、恐怖を無理やり感じないようにしたことだったという。


「オリンピックの切符がかかっていたし、チャンピオンというプレッシャーもあるし、負けに対する恐怖がありました。今はそれは当たり前のことだと思えるけど、当時はその感情を抑え込もうとしたんですよね。“私は怖くない”って自分を騙して、ずっと無理をしてたんです」


その結果、心と身体のバランスが崩れた。


「メンタルに限界がきて自律神経が乱れたり、逆流性食道炎になったり、体調にも良くない影響が出てしまった。試合中も意識ばかりが空回りして、全然体が動かなくて、結果的に負けてしまったという感じですね」


恐怖は消せない。
押し殺せば別の形で噴き出す。
そして、この経験が考え方を変えるきっかけになった。

“今、ここ、自分”―恐怖は消すのではなく、連れていく

東京オリンピックを逃した後、クリスタはメンタルについて学ぶようになる。
そこで出会ったのが、辻󠄀秀一氏だった。


「辻󠄀先生はいつも『今、ここ、自分』という言葉を大事にしていて、私もそれを意識するようになりました。東京落選後は、周りから同情の目もあったし、次のパリに向けて期待の目もあった。そういう外的要因が多い中で、いかに自分らしくいられるか、今の自分をどう信じられるかが大事なんだと気付いたんです」


過去の失敗、未来への不安、周囲の評価。
そうした外側のノイズから一度離れて、今のありのままの自分に戻る。

それを意識するようになってから、心の振り幅が小さくなったという。


「心に何も風が立ってない状態がベストだと思っているので、意識しているのは“凪”です。振り回されないことが大事なので、普段から気持ちをニュートラルに入れて、できるだけ振り幅が大きくならないようにしています。めちゃくちゃ難しいんですけどね。でも、前は車の運転中に割り込みをされたら、許せない!と思っていたけど、今は、何か事情があるのかなと思えるようになった。心の穏やかさを意識するようになってから、本当に結果も安定するようになりましたね」


そしてもう一つ、大事なことがあると話す。

「自分を好きになることです。辻󠄀先生に『自分のことが好きじゃなかったら、自分のことを信じられないよね』と言われてから、ダメな部分も含めて自分自身を好きになる、愛することは恥ずかしいことじゃない、と思えるようになりました」


自分の欠点を含めて、今の自分を認めること。

そして、自分自身を信じるとは、決して強がることではない。
辻󠄀氏の教えを胸に、クリスタはパリオリンピックの選考会に臨んだ。


「パリ選考会の時は、心が一番いい状態にあったかと言われたら正直わからない。でも、東京選考会の経験もあったし、試合を怖いと思うのは当たり前なんだと認めて、恐怖と一緒に戦おうと思ったんです。恐怖がある分、いつもより気持ちが高ぶっているのが普通だと意識を変えて、心の調子を合わせるようにしました」


凪の状態が理想でも、心に波が立つことは避けられない。
ならば、その状態を認め、心の振り幅を極力小さくすることで、その時の自分の平常心を作る。

それができるようになったのは、絶頂と挫折、どちらの経験もしてきたからだ。


「やっぱり挑戦と失敗を繰り返すほど、人は強くなると思うんですよ。2019年の世界選手権でチャンピオンになった時、自分では変わらないつもりでも、周りの見る目や環境が変わったりして、なんとなく自分が高いところに行った気になった。結果、今までとのギャップを埋めるのが大変だったし、東京予選の負けでどん底を知った。でも、その経験があったからこそ、私は自分の内面的な部分も成長できたと思っています」


“今、ここ、自分”

過去でも未来でもなく、今の自分としっかり向き合うこと。

それこそが、出口クリスタの揺るがない軸になっている。