
金メダルの先で見つけた“無になれる時間”。出口クリスタが釣りに魅せられる理由
2024年パリオリンピック柔道女子57kg級で世界の頂点に立った出口クリスタ(日本生命)。
長年、競技にすべてを注いできた彼女が、今夢中になっているものがある。
それが「釣り」だ。
幼少期に親しんだ海釣りから始まり、現在は山奥の川を歩きながら魚を追う渓流釣りへ。
自然の中で体を動かし、川の音や鳥の声に耳を澄ませる時間。
クリスタにとって釣りは、競技から離れた今も「熱中して練習したい」と思える大切な存在になっている。
幼少期に始まった釣り。今は渓流を歩きながら魚を追う
クリスタが初めて釣りをしたのは、小学校低学年の頃だった。
「道場の先生が練習が終わった後に海釣りに連れて行ってくれました。豆アジを釣ったり、子どもでも楽しめるような釣りがメインでしたね」
道場の先生に連れられ、練習が終わった夜に出発。
車内で眠り、現地に着くと夜から釣りを始める。船に乗る時は、まだ薄暗い早朝に出港することもあった。
「小学校高学年になったら、船で沖に連れて行ってもらえるようにもなりました。堤防からイカを狙ったり、投げ釣りも覚えました。先生は釣りとかスノーボードとか、趣味的な部分もいろいろ教えてくれましたね」
ただ、中学・高校・大学時代は柔道に集中していたため、釣りからは一度離れた。
再び釣りをするようになったのは社会人になってから。そしてパリオリンピック後、本格的に楽しむようになったという。
現在は渓流釣りがメインで、友人たちと一緒に出かけていると話す。
「よく行くのは山梨県内ですね。渓流釣りに詳しい友人がいて、良い川を教えてくれるので、ほとんど一緒に行っています。人の整備が入っていないような源流、上流に行くことが多いですね」
渓流釣りは、同じ場所にとどまって魚を待つものではない。一本の川を打ちながら、少しずつ上流へ登っていく。
「基本的に一本の川を打ちながら、どんどん登っていく感じです。だから、すごい歩きますよ。9時~10時スタートで、15時~16時ぐらいまでずっとやっているので、多い時は10kmくらい歩きますね」
先に人が入っていると魚が警戒し、釣れにくくなる。そのため、衛星写真を見ながら、人の手が入っていなさそうな場所を探すこともあるという。
「目的の場所に着いても、すでに人の足跡があったら他の場所に行くこともあります。冒険みたいな、探求心みたいな感じですね。だから、その土地に詳しい人がいると情報とか選択肢が多くなるので、詳しい友人のいるエリアに行くことが多いです」
渓流ではヤマメやイワナを狙い、できれば尺サイズ、つまり30cmを超える魚を釣りたいと仲間たちと話している。
「尺ヤマメとか尺イワナって言うんですけど、みんな尺以上のサイズを求めて川に入っています。それを釣るために頑張ってますね」
これまでのベストは、最近釣った33cmのイワナだという。
「30㎝を超えるとやっぱり結構大きいなと。3人で行って、釣れたのは私だけでした」
そして、生息地が限られているヤマトイワナもいつか釣ってみたいと話す。
「山梨、長野で釣ってみたいよねっていう話はしていて、生息地と言われている川にこの前行ったんですけど釣れなかったですね。地域によって水系が違うし、生息地を探すのも難しいけど、やっぱり一度は釣ってみたいです」
忘れられない大物との出会い

子どもの頃の釣りの思い出で、今でも一番印象に残っているのは大きなタイを釣った時のことだという。
「釣りには何回も行っていますけど、あの時のことは今でも鮮明に覚えています。子どもの時に釣った魚で一番大きい魚だったし、一番思い出に残っていますね」
船に乗っていたものの、その日はなかなか釣れなかった。餌のエビだけ取られてしまい、また仕掛けを落とす。その繰り返しだった。
子どもだったクリスタは集中力が切れ、「全然釣れないじゃん」という気持ちで寝転がっていたという。
その時、竿が大きく入った。
「先生とか船長とかに『来てる!来てる!』って言われて。電動リールで上げて、途中から自分で手巻きしなきゃいけないんですけど、その時にめちゃくちゃ重くて。すっごい大物が来たっていうのを感じました」
釣り上げたタイは、タモがなければ船に移せないほどの大きさだった。
「本当にすごい興奮しました。あの瞬間はやばかったし、忘れられない思い出ですね」
そのタイは自宅に持ち帰り、家族と一緒に食べたという。
「煮つけにしてもらって、みんなで食べました。メスで卵を持っていたことまで覚えています。諦めずにやり続けたからついてきた結果で、自分で釣り上げてすごい嬉しかったけど、それだけじゃなくて、ちゃんと食として最後まで食べる。そういう一連の流れみたいな部分も、子どもながらにすごくいい勉強になったと思います」
釣りは、ただ魚を釣るだけではない。自然の命に触れ、それをいただくところまで含めて、大きな学びを与えてくれる。
また、海外での釣り経験もあるクリスタは、カナダで日本とはまったく違うスケールの釣りも体験した。
「日本は島国だし大きい国じゃないから、生き物も土地に適したサイズ感ですけど、カナダは土地が広いからスケールが大きいんですよね。川もすごい広いから魚も大きいし、クマとか鹿とか生き物自体がとにかく大きいです」
カナダでは川釣りだけでなく、アイスフィッシングも体験した。分厚く凍った湖の上にテントや小屋を設置し、中には暖房やソファ、テレビ、冷蔵庫まであるという。
「そこに穴をあけて釣るんですけど、お酒を飲みながら釣ったりして、日本ではなかなかできないので、すごい楽しかったですね。釣れる魚も大きくて、その時は日本の在来種にはいないパイク系の魚が釣れました。あれは本当に楽しかった。もう一回やりたいですね」
海外の魚はサイズもパワーも違う。
「もう全然違いますよ。大きさだけじゃなく歯もすごいし、噛まれたら大変なので、扱いにも気を付けないといけないですね」
魚が違えば、使う道具も変わる。目的とする魚に合わせて道具を選ぶことも面白いポイントだと言い、釣りへの興味は広がり続けているという。
そして、クリスタには今後挑戦してみたい場所もあるという。
「北海道とか東北に行ってみたいです。SNSで北海道で釣れた大きいトラウトとかが流れてくるんですけど、めちゃくちゃかっこいいんですよね。65㎝とかですよ。あれは一回釣ってみたいですね」
「自然が相手だから面白い」釣りが教えてくれたこと

クリスタが渓流釣りに熱中している理由の一つに、自然の中で体を動かせるということもある。
「子どもの頃から長野の自然に囲まれて育ってきたし、現役中は自然に触れることでリフレッシュしてきた部分もあります。現役を引退して体を動かす機会が減った今、自然の中を歩きながら楽しめる釣りの時間が好きなんですよね」
現役中は、自然と触れ合う時間がほとんど取れなかった。だからこそ、山に入り、川を歩き、季節の変化を肌で感じる時間が大切になっている。
「渓流は3月解禁なので、まだ山には緑が少なくて、川の水も冷たいところから、季節が進む中で緑が増えていって、また落ち葉になっていく。そういう季節の変化を肌で感じられるのがすごく良いなと。自然と向き合うと環境問題を考えるきっかけにもなるし、いろいろ学びがあるなと思いますね」
そして、パリオリンピックで金メダルを獲得した後、釣りは特に大切な時間になったという。
「メディアとか露出が増えていく中で、自然の中は“無”に帰れる場所ではありました。昔から好きな自然の中で、人混みから離れられるというのが良かったですね」
では、釣りをしている時、頭の中では何を考えているのか。
「基本的に余計なことは何も考えなくて。現実から離れられるから好きなんですよね。川の音と鳥の鳴き声を聞いたりしているのも好きだし、それがある意味集中できているというか。あれはキツツキだなとか、これは何の鳥かなとか、自然のことしか考えない時間が好きです」
街中では聞こえない川の流れや鳥の声。そうしたものに耳を澄ませる時間が、クリスタにとって心を整える時間になっている。
一方で、釣りには競技と重なる部分もあると話す。
「どちらも練習ありきなところですね。ルアーをいいところに投げるためにはいっぱい練習しなきゃいけないし、ルアーのアクションの起こし方も練習しなきゃ感覚が分からない。経験が物を言う部分もいっぱいあるし、そういう部分では一緒かなと思います」
釣りもスポーツ。上手い人ほど練習しているし、上手い人ほど楽しめる。そこは柔道と同じだと感じている。
ただ、柔道と大きく違うのは、相手が人間ではないことだ。
「自然が相手ですからね。当たり前だけど、そこは全然違いますよね。相手の考えを読もうとする部分は一緒だと思うんですけど、その相手が人間じゃないから難しいなとは思います」
釣れない日もある。仲間は釣れているのに、自分だけ釣れないことも何回もあった。
「私だけ一匹も釣れないとか普通にありますよ。4回連続で私だけボウズだったこともありました。そういう時は練習不足だなと思います。経験不足もあるけど、自分の技術力が足りないからタナを狙えていなかったり、ルアーの動きができていなかったりするんだなと思うので、練習するしかないなと思います」
釣れないからといって、魚にイライラするわけではない。むしろ、自分に原因を向ける。
「魚がいないんだったらしょうがないじゃないですか。それは自分たちが行く場所を間違えたという感じなんですけど、ルアーには近づいて来ているのに、食いつかないのが一番悔しいんです」
追っては来る。でも食いつかない。
「そこは本当に技量のなさですね。糸を巻くスピードとか、しゃくり方とかは考えてやっているけど、知識も足りないし、アプローチの仕方もまだまだ分かっていない。魚に食べたいと思わせることができないのは、自分の持っている選択肢が少なすぎるということなので、もっと練習していきたいです」
トップアスリートらしく、釣りにおいても課題は自分の中に見つける。自然を相手にしても、その姿勢は変わらない。
そして、自然は楽しいだけではない。常に危険とも隣り合わせだ。
「水の中の岩が見えなくて足を切ったこともあるし、転んで竿を流されそうになったこともあります。大きな岩から滑り落ちそうになって、一瞬すべてがスローに見えたこともありました。落ちる前に、どうやって着地するか、どこに足を置こうかは見ていたのでなんとか大丈夫だったけど、結構やばかった。着地した所はわりと深かったし、着地に失敗していたら泳げないので、危なかったなと思います」
蛇やクマ、イノシシなどの野生動物にも注意が必要だ。スプレーと鈴は常備し、足跡や臭いにも気を配る。
「なんとなく獣臭いとかあるので、周りをしっかり見るように意識はしています。実際、すごく臭い時があって、周りを見たら小さい滝に動物の死骸が浮いてたんです。死んでしまった要因はいろいろ考えられるので、そういう時はいつも以上に気を付けますね」
季節の移り変わり、野生動物、環境問題。釣りはいろいろなことを教えてくれる存在だという。
「釣りは、柔道から離れて現役じゃなくなった私が、熱中して練習したいと思える趣味のひとつです。便利な世の中だからこそ、文明とちょっと離れて自然と向き合うことは、人間が忘れちゃいけないものだと思うんです」
自然がつないでくれた祖母との時間
釣り以外にも、クリスタは自然の中で過ごす時間を大切にしている。
キャンプ、山菜採り、キノコ採り―
「友人たちとキャンプ場に行くこともあるし、渓流の近くでキャンプをして、釣りとセットでやることもあります。キャンプ場に泊まって海釣りをやったりもしますし、前の日はキャンプして遊んで、次の日は朝から釣りに行くみたいなのは完璧ですね」
山菜採りやキノコ採りは、祖母や母たちと一緒に行う。
特にキノコ採りは注意が必要なため、祖母に確認してもらいながら行っているという。
「キノコは本当に知識が必要なので、採ったらおばあちゃんに確認してもらっています。やっぱりおばあちゃんがキノコの知識は一番ですね」
しかし、その祖母は、2年ほど前から体の不調が目立つようになった。
長年働き続け、体を動かしていないと落ち着かないような人だったが、思うように体が動かなくなり、気落ちして外に出る機会も減ってしまった。
そこでクリスタは、できるだけ祖母をキノコ採りに誘うようにしているという。
「おばあちゃんが登れる範囲で、リハビリも兼ねて連れ出しています。おばあちゃんにとっても体を動かすきっかけになるし、少しでも思い出になればいいなと。私も体を動かせるし、おばあちゃんとの時間も過ごせるし、私にとっては祖母孝行にもなっているのかなと思っています」
クリスタ自身にとっては、体も動かせて、祖母と過ごす楽しい時間。祖母にとっては、孫と過ごす時間が、外に出るきっかけやリハビリにもなる。
自然と向き合う時間は、家族との思い出を育む時間にもなっている。
そして、最近は動画やテレビで釣り番組を観ることも多く、機会があれば挑戦してみたいことも増えているという。
「大海原に出て釣りとか、そういうのも楽しそうだなと思いますね。釣れるまで帰れないとか、深海釣りとかもすごい面白そうだし、いつか機会があったらやってみたいですね」
最後に、釣りやアウトドアに興味を持つ人へ、クリスタはこう語る。
「釣りもアウトドアも、自然と向き合い、命と触れ合うことができるいい機会だと思います。特に渓流釣りは、山も登るし、川の中も歩くので、運動にもなるしすごく健康的。外遊びが好きな人、生き物が好きな人はきっとハマると思います」
ただ、渓流釣りは詳しい人がいないといきなり始めるにはハードルが高いかもしれないと話す。
「道具の貸し出しがある管理釣り場なら、挑戦しやすいんじゃないかなと思います。もともと私は出不精なんですけど、釣りはフットワークが軽くなるんですよ。何か目的があったら重い腰も上がると思うし、少しでも興味を持ってもらえたら嬉しい。ぜひ一度やってみてほしいなと思います」
自然の中で体を動かし、命と向き合い、人との時間を大切にする。
出口クリスタにとって釣りは、競技を離れた今、夢中になれる大切な趣味のひとつになっている。
