
土性沙羅の第二のキャリア|「至学館コーチとしての日常(後編)
オリンピック金メダリストから、母校・至学館レスリング部のコーチへ。
現役時代とはまったく違う視点でマットに立つようになった土性沙羅は、指導者としての日々の中で、想像していた以上のギャップと向き合っている。
土性が直面する指導の現場を全2回(後編)で掘り下げる。
時代は変わった。それでも「強くする」責任は変わらない
かつての至学館は、日本一厳しい練習環境と言われるほどだった。
当時はあまりにも練習がきつく、寮から脱走してしまう選手もいたという。
「寮から逃げても、結局は連れ戻されてしまうんですけど(笑)今となっては笑い話ですが、昔はそれほど練習はきつかったですね。だからこそ、日本一厳しい練習環境という自信もありました」
中でも象徴的なのが、当たりと呼ばれる練習だという。
【当たり】
・1人の選手がマットに入り、1本1分で新しい選手と次々に対戦をしていく。
・5本中で相手から点数が取れていたら、5分で終えることができる。
・最後の5本目が終わる時点で点数が1点も取れていない場合、点数が取れるまで延々と対戦が続いていく。
そして、この当たりの辛いところは、格上の選手と対戦させられるというところ。
点を取るまで終われないため、何十分もマットに残され、意識が飛びそうなほどフラフラになってしまう。
しかし、相手は容赦なく、1分ごとに体力満タンの選手が入ってくる。
吉田沙保里など世界的な選手が相手になることもあり、まさに地獄のようなメニューだったという。
「万全の状態でやっても全く勝てない相手なのに、死にそうなくらい疲れている時にやるなんて、絶対無理なんですよ(笑)泣きながらやる選手もたくさんいたし、本当にきつかったです」
今も当たり自体は練習メニューにあるというが、部員数の減少もあり、昔に比べるとそこまできつい内容ではないという。
また、昔はロープ登りの練習も容赦がなかった。
「苦手な選手は、登ったものの腕が限界になってしまって、そこから落ちてしまったり、摩擦で手足の皮が剥けたり、火傷みたいになってしまう選手もいました。でも、手足を守れない登り方をするのが悪いという時代だったので、もっともっと努力をしなさいと言われる環境でした」
振り返れば、決して全てを良しとはできないが、その徹底した厳しさが、世界の舞台での逆転劇につながっていたと土性は言う。
「日本人は海外の選手に比べると、どうしても体格やパワーでは劣ってしまいます。でもその分、真面目に厳しい練習を積み重ねてきた。その部分が、世界の大舞台で追い込まれた状況でも、逆転で勝ち切れた要因の一つだと思っています」
今は同じレベルの厳しさを、そのまま再現することはできない。
社会の価値観も、安全面への意識も大きく変わった。
「当時と同じ練習を今やったら大変なことになりますし、なかなか厳しいことも言えない。どうしていこうか、という話はコーチ陣の間でもよくしています」
厳しさで選手を追い込む時代から、体調やメンタルへの配慮、言葉で伝える技術が求められる時代へ。
それでも、選手を強くしたいという共通の想いは、今も昔も変わらない。
褒める指導を積み重ねて—顔つきが変わる瞬間

選手の闘争心の出し方も、人それぞれだ。
最初から前面に闘争心を出せる選手もいれば、そうではない選手もいる。
土性は、闘争心を出すことが苦手な選手には、具体的に褒める指導を心がけているという。
「今の技すごく良かったよ、ちゃんとできてたよと必ず伝えます。できなかったことができるようになったら、きちんと褒める。そうすると、明らかに選手の顔つきが自信がついた顔に変わるんです」
自信がつけば、自分はできる、勝てるかもしれないという気持ちも少しずつ生まれてくる。
その感情の変化を引き出すことを、土性は意識している。
土性自身も、かつては自信があるタイプではなかったという。
「今でこそマットの上では、怖いと言われたりもしますが(笑)昔は監督の前で練習をするとすぐ怒られていたので、マットの端のほうで目立たないようにこそこそやっていました」
だからこそ、声を出すことが苦手な選手の気持ちも分かる。
「実際、会話も聞き取れないくらい声が小さい選手もいます。そういう時は、ちょっと小さいよ~と軽く肩を指でツンツンするようにしています。そうすると、選手も笑いながら返してくれるので、怒るのではなく、スキンシップも取りながら、軽い感じの方が伝わるような気がします」
しかし、一度伝えただけでは、すぐまた元に戻ってしまう。
だからこそ、何度も繰り返し伝え、癖付けしていくことが大事だと考えている。
時には、土性自らマットに入り、誰よりも大きな声を出してみせることもあるという。
「私が最初に声を出すことで、選手たちが声を出すことが当たり前と思ってくれたら嬉しいなと思っています」
“このコーチなら強くしてくれる”土性が目指すコーチ像
昔は、コーチの言うことは絶対で、選手は何も言えない空気があった。
今は選手との距離が近くなり、コミュニケーションが取りやすくなった一方で、近くなりすぎると友達のようになってしまうリスクもある。
だからこそ、土性はオンとオフの線引きを意識しているという。
「挨拶ができていない時はもちろん叱りますし、それ以外のこともできていないことがあればしっかり叱ります。その上で、何がどうダメなのかということを、きちんと伝えるようにしています」
一方で、プレーや練習への取り組み姿勢で良いところがあればしっかりと褒める。
練習以外の場面では、学校の話や最近の話題など、レスリング以外の会話も大切にする。
レスリングのことだけでなく、選手の日常にも気を配ることで、より良いバランスが取れるよう意識しているという。
土性が思い描く理想のコーチ像は、選手に寄り添い、信頼される存在だ。
技術的な部分や肉体づくりなど、選手が抱える様々な悩み一つ一つに耳を傾け、具体的なアドバイスはもちろん、時には一緒に解決策を考えていける指導者になりたいと話す。
「このコーチだったら自分を強くしてくれると、選手たちに思ってもらいたい。そうすれば、選手自身のやる気ももっと上がるし、チーム全体の士気もどんどん上がってくると思うんです。そういう存在のコーチになっていきたいです」
技術を教えるだけの指導者ではなく、目標を共に見つめ、悩みに耳を傾け、時に厳しく、そして温かく寄り添う存在として—。
土性沙羅は、次世代の選手たちと向き合い続けている。
